桂牧/ジギタリス



 1951年三重県志摩半島にて出生。零歳で東京は文京区茗荷谷へ。

幼児期はディズニー『ファンタジア』に東映歌謡時代劇。ラジオ・デイズは三木トリロー、楠木トシ江。小学校から大田区、矢口渡そして洗足池。近所にエノケン、服部良一。小三の頃ようやく家にテレビが。そして家の片隅に追いやられたラジオのチューナーを悪戯するうちFENの音楽番組と出会う。9500万人(!)のポピュラーS盤リクエストアワー。エリントン、ラテン・ムード、ナット・キング・コールにプラターズ。テレビはトリオ・ロス・パンチョス、クレージー・キャッツでモダン・ジャズ(?)。

 小六最後の学期に一家は横浜移住。中一にベンチャーズ、British Invasionそしてビートルズ・シンドローム。 翌年ビートルズ来日。スクール・メート(要するに同級生)二人とともにようやくギターを手にとり「イェー、イェー」とやり始めたところに、いきなりジョン・レノンの『明日の知る由もなく』が。高校受験勉強も忘れビルボードのチャートを眺めながらFENの深夜番組にのめり込む。横浜YAMAHAに輸入盤コーナー。サイケデリックとR&Bで発熱。高校入学。ミキシング機能付きのオープンリール・テープレコーダーを手に入れる。多重録音事始め。(依然発熱中)

 

 発熱のまま70年代。ジャズ喫茶にブラックホウク。1975年、当時日本で3組しか(知ら)なかったジャグバンドの一つ、横浜のアンクルムーニー(他は京都の田舎芝居、豊橋のジャムポット)に加入。(スライド)ギター、マンドリン、コーラス担当。マネージメントの関係でティンパンアレー・ファミリーの末席を汚し、平行して関東各地の米軍キャンプ、六本木アメリカン・クラブなどで演奏活動。久保田麻琴のプロデュースにより各社でデモテープを制作するもオイルショックでメジャーデビュー消滅(ホンマか)。加えて基地縮小でキャンプでの演奏活動もままならず1977年解散。

 

 アメリカの呪縛からの解放。入れ替わりにパンク、ニュー・ウェーブ。武蔵野に移住し友部正人のバンド、遠藤ミチロウとのバンドの立ち上げに一瞬参加など経て1980年、京都滞在中飲み屋で偶然再会したタイガージェット山本シン、そして川下直弘(フェダイン)と招き猫ユニットを結成。全国を(居候)ツアーして回る。同時期にオクノ修のカセットアルバム『BEAT MINTS SLOW MINTS(オクノ修 Vol. 3)』の東京でのレコーディングにギターで参加。

 

 1981年、招き猫ユニット福岡で解散。手にしたギャラで東京まで帰り着けずそのまま京都に居を移す。元シェリフ、スカンクの青木しげひさ、村嶋洋一とともに田中研二、古藤只光など関西のフォーク・シンガーの伴奏など手伝いつつ京都のブルース、フォークの老舗喫茶「むい」の店員となり、ハウス・バンドであったむいジャグバンドに参加。むいジャグバンドはジャングルバンドと名を変えるが「むい」の閉店などもあり消滅。

 

 1985年、京大西部講堂を拠点とする劇団「ZIGI」に音楽監督として参加。1987年、たまたま8トラックの機材が手に入ったことから芝居の音楽をまとめたLPレコード「ジギタリス」制作。以後自宅録音が本格化する。

 1990年代は自身あるいは知り合いのバンドなどのカセット作品の録音、制作を手がける他、自分のバンド、オシツオサレツ、ジギタリスそしてオクノ修のビートミンツ再結成むいジャグなどバンド三昧。

 

 1998年、実家の事情により横浜に戻る。パソコンを導入し自宅録音もグレードアップ。2002年、サボテンの久々のアルバム『つづく夢』のサウンド・ディレクションを担当。2004年、1996年頃から自宅で録り溜めしていた自身初のソロアルバム『牧』完成。10月10日オフノート・レーベルの全面協力により立ち上がった個人レーベル、ジギタリスレコードから発売となる。 

 そして音の旅はまだまだ続く